第443回市民医学講座:認知症の理解とケア

20.11.26 005.jpgいずみの杜診療所

山崎 英樹 先生

と き:平成22年1月21日(木)午後1時30分

ところ:仙台市医師会・仙台市急患センター

     2階ホール

 

 

 

 

認知症の理解とケア―ココロとカラダ―

例えばここに”家にいるのに「家に帰る」と出ていく人” がいるとします。この人を、どのように理解したらいいでしょうか。そもそも”家にいるのに(家にいる自覚がない)” とは、どのような事態なのでしょう。そしてまた、なぜ「” 家に帰る」と出ていく” のでしょうか。

「ココロとカラダ、にんげんのぜんぶ」。これは、あるカメラメーカーのキャッチコピーです。言われてみれば確かにそのとおりで、認知症の人を理解するときも、その人のカラダの状態を(アタマで)知り、ココロのありように(ココロで)気づく必要があります。

“家にいるのに(家にいる自覚がない)” という事態そのものは、ココロだけでは計りがたい現象です(精神科では「了解不能」と言います)。むしろ、カラダになにか異変が起きていると考えるのが自然です(精神科では「説明」と言います)。医学的には見当識障害と言い、意識障害(脳の急性障害)や知能障害(脳の慢性障害、先天性なら精神発達遅滞、後天性なら認知症)で生じます。高齢者では、脱水や薬の影響による意識障害と、大脳の後方に病変が広がるタイプの認知症(アルツハイマー病やレビー小体病など)が問題になります。

外界の認識(情報入力)には大脳の後方が、その情報に基づく行動(情報処理と出力)には大脳の前方が関係します。ですから大脳の後方に病変が広がると認識が崩れて見当識障害になるわけです。ちなみに大脳の前方に病変が広がるタイプの認知症(ピック萎縮症など)では見当識が保たれ、迷子になることはありません。言語にしても、病変が後方なら理解の障害(後方型失語)が、前方なら発話の障害(前方型失語)が特徴です。

記憶障害についても、脳の病変部位に応じた特徴があります。例えばアルツハイマー病では側頭葉内側に病変が生じて出来事の記憶(エピソード記憶)が初期から障害されるものの、大脳に広く蓄積された知識の記憶(意味記憶)は中期まで保たれ、小脳などに蓄積された身体に刻んだ記憶(手続き記憶)は後期まで保たれます。つまり民謡や皮むきなどの「昔取った杵柄」は手続き記憶に支えられており、後期までケアに生かすことができるわけです。

その病変部位とはあまり関係なく、脳に障害のある人に一般的にみられる傾向や態度というものも知られています。例えば意図的になにかをしようとするとかえってできなくなり(意図性自動性能力のかい離)、せかされたりすると余計に混乱し(破局反応)、極端に疲れやすく、集中力が落ち、繰り返しが多くなり、情緒不安定
になります。

こうしたカラダの状態を知ることによって、認知症ケアに伴うさまざまな「なぜ」が、少し軽くなるような気がします。なぜ、こんなに忘れるのか。なぜ、こんなに通じないのか。なぜ、こんなことをするのか。そして、なぜ、こんなこともしないのか。なぜ、なぜ、なぜ、の介護に、いったんは答えをみつけるために、そしてなにをあきらめ、なににこだわればいいのかを整理するためにも、カラダの状態を知る(アタマで分かる)ことは決して無駄ではありません。

次に、「” 家に帰る」と出ていく人” のココロについて考えてみます。家に帰りたいという気持ちは、胸に手を当てて自分のココロに照らせば、どなたも直感的に理解できる心情です。例えば他人に支配されていると感じたとき、あるいは集団の中で孤立を感じるとき、人は「家に帰りたい」と思います。医療や介護の世界では
「専門家支配(フリードソン)」に気をつけなくてはなりませんし、家文化の崩壊による家族関係の希薄化や役割の喪失に伴う孤立といったものにも思いを致さなくてはなりません。認知症に伴うカラダの状態によってその表現は異なる
としても、「家に帰りたい」と思うココロそのものは、認知症のあるなしに関係のない普遍的なものです。つまりあたりまえのココロに気づく(ココロで分かる)ことが大切です。

他人のココロに気づくには、ある種の感性が必要です。最近、医療にならってEvidenceBased(EB根拠にもとづく)ケアや、NarrativeBased(NB物語にもとづく)ケアということが言われるようになりました。EBは仮説が正しいか、正しくないかが問われ、「その人【に】なにができるか」という専門性が問われ、結果と
して「その人らしさ」が問われます。一方、NBはかかわりが楽しいか、楽しくないかが問われ、「その人【と】なにができるか」という関係性が問われ、結果として「私たちらしさ」が問われます。専門性とともに関係性が、知識とともに知恵が、資格とともに資質が、能力とともに人柄が、認知症ケアでは問われるわけです。

認知症ケアでさらに大切なことは、積極的で肯定的な死生観をもつことではないかという気がします。

98年にWHOの理事会で健康の定義にSpiritを加えるという提案を総会の議題とすることが可決され、日本でも大きく報道されました。WHOの改正案は、次のようなものでした。「健康とは身体的・精神的・【霊的Spiritual】・社会的に完全に良好な【動的Dynamic】状態であり、単に病気あるいは虚弱でないことではない」。48年制定のWHO憲章でうたわれた従来の健康の定義に、【 】部分を加えたものです。改正案はイスラム諸国から提案されたものでしたが、99年の総会では日本を含め反対国が多く、採択は見送りとなりました。

WHOで採択はされなかったものの、スピリチュアリティは緩和ケアの世界に浸透していきました。

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スピリチュアリティは危機状況に直面した生命が、生命維持のために覚醒する機能であるとも理解できる。人が生きるのに必要な生きる意味や価値を再発見するために覚醒する機能であり、その意味ではスピリチュアリティは生命維持の基本的機能であると言えよう。(窪寺俊之)

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人間は人生が有限であるがゆえに無限とつながろうと努めるのである。スピリチュアリティは関係性への気づきであり、特に五感を超えたものとの関係性の気づきである。自我の殻がなくなり、私たちの中にある真理が、外側にもあることが分かったときにスピリチュアリティを感じる。(デニス・クラス)

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(世界は)まったくの無意味か、すべてが有意味かという決断は、論理的に考えると、根拠がない決断です。その決断には根拠はなにもありません。言い換えると、根拠がなにもないということが、決断の根拠になるのです。この決断を下すとき、私たちは、無の深淵にさしかけられて宙づりになってしまいます。けれども、この決断を下すと同時に、私たちは超意味の(意味を超えた)地平にいるのです。(フランクル)
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認知症ケアを続けていくと、いずれ老いや死というものに行きつきます。そして、それらの不如意性を前向きに超える死生観がないと、介護の現実はなかなか支えきれないように思います。悲観主義は気分であるが、楽観主義は意志である(アラン)と言います。スピリットという楽観を意志することによって、認知症ケアは
普遍的なスピリチュアルケアのレベルに至るのかも知れません。